【第6回】本朝新聞事始め(弐)

【第6回】本朝新聞事始め(弐)
世間一般の方は、新聞紙面に掲載された記事が事実であることを疑いません。
これは我々が“新聞は客観報道を旨とするメディアである”と教えられてきたからです。
それでは、まだ新聞が誕生した当時、虚実ない交ぜだった江戸期の瓦版の伝統がまだ生きていた明治初期、如何に新聞は読者の“信頼”を獲得していったかが今回のテーマの序となります。
丁度先般、日食がありましたので、以下の事例が分かりやすいでしよう。


1874年12月4日の読売新聞からの紹介です。
「今月九日御前十一時に金星といふ星が、太陽の前を通過、午後三時四十五分に終る故、太陽の前に黒点のようなものが見ゆるといふ」という金星蝕の記事を載せ、これに科学的な説明を加え、かつ「世間ではこんな現象が起こると不吉の現れと騒ぐが、そんな馬鹿なことを信じてはいけません」と、読者を啓蒙しています。
明治の新聞に現在で云う投書欄が既にあったのですが、後日この投書欄に「確かに新聞の云う通り見られた。とても感動して、新聞に感謝します」という記事が載ることになりました。


初期の新聞が繰り返したのは、愚直なまでに事実を書き、紙面への信頼を高めることだけでした。
勿論、通信手段が発達していなかった当時のことですし、当時の新聞は投書欄の読者からの情報を元に新聞記事を作っていたくらいですので、虚報・誤報も多かったわけですが、当時の新聞社はただ虚報を詫びるだけではなく、それが本当に虚報かどうかの裏付けまで取ろうと、誌上で情報募集などまで行っていました。
これはただ情報の真偽を判断するだけではなく「新聞に掲載される言葉は、指示する対象と正確に対応して必要があるのだ」という認識を、読者にも共有して貰いたいというメッセージも含んでいたのです。


これらの努力の末「新聞の言葉は指示世界と対応する透明な媒体なのだ」という観念を、読者に共有させ、同時に「言葉が世界を写す道具である」という認識を、新聞を通じて世間に広げていったわけです。
そしてその結果、新聞紙面に記された記事=社会的な事実、とみなされるに至ります。
もっとも、外交上重要な案件や戦時体制下ではこの理念通りに運ばなかったわけですが、概ね、読者はこうして新聞を「真実を写す媒体」認識していったわけです。


ですが、その結果。
新聞の情報を鵜呑みにするようになった国民は、ロシアとの戦争継続を求め、満州進出を国の生命線だと信じ込み、鬼畜米英を打倒しなければならぬ! と戦争に突き進んだわけです。
勿論、それに対抗した勇気ある記者たちもいました(一部「政治的意図による反対」を叫んだ記者たちがいるのも事実ですけど)。そして政府内部で軍部の力が絶大だったことは確かです。
しかし、それでも結局新聞は最後まで国民を負の方向に煽ったことは事実であり、煽られた国民が更に過激な方向に突き進んだ結果が、太平洋戦争の悲劇です。
どうにも昨今、戦前を批判する人々の論法が一様に「戦争に突き進んだ軍が全て悪い。国民は一方的な被害者だ」でまとめられ、思考停止しているようにしか見えません。
彼らはひょっとして、戦前の日本が立憲民主制であったことを理解していないのではないか? そんな疑いすら持ってしまいます。


さて、そんな太平洋戦争勃発から約七十年。
今度は「軍部の力を借りずに」国を覆すことができる事態までマスコミは持ち込みました。
我々は当時の人々と同じく「新聞=正確な情報を流す媒体」と信じて行動するのでしょうか? 
それとも。
新しいインターネットという媒体を通じて、自ら真実を見つけ、新しい行動に移すのでしょうか?
審判は8月30日に下されることになります。 
(続く)