【第7回】本朝新聞事始め(参)

【第7回】本朝新聞事始め(参)
この本朝新聞事始めシリーズの過去二回は、明治初期の新聞の比較的「正」の側面を取り上げてきましたが、無論同時に「負」の側面も抱えていたわけで、今回はそれを取り上げましょう。
明治初期の代表的大衆新聞である報知新聞は当初から「女童の教え」を標榜していました。
つまり、ただ文明開化の御代に生きる人間に相応しい知識を啓蒙するだけではなく「社会を教化する」という役目を担う、と自負していたわけです。
ですがその結果、必然的に新聞は“規範に外れる行状を行った者”に対して、露骨な懲戒の姿勢を見せました。
ある悪事を報道する際、新聞は次のような一文でその事件を結びます。
“毎度新聞に出てあれども、悪いことをして知れぬと思う心は全く心得違いであります。必ず知られずにはいられません”
さりげない物言いですが“必ず知られずにはいられません”の部分に籠められているのは
「犯行に対しての刑罰だけではなく、新聞誌上で広く知らせることにより社会的な制裁を科す」という宣言なのです。


自らを勧善懲悪を実現するための懲罰機関と位置づけた新聞記者が庶民にとって如何に恐るべき存在であったかは、以下のエピソードが物語っています。
“当時(1876年)は子供が泣けば、そら、お巡りさんがお出でだとか、新聞屋が見に来たとか云うと泣きやみます”
明治も十年も経たないうちに「新聞は悪名を広い範囲に流布させ、生涯消えない汚点を負わせる媒体である」という認識が広まっていたわけです。
現在より遙かに“世間体”を意識していた人々にとっては、新聞紙上の暴力は、単純な暴力によるものより深刻なものであって、実際に明治初期には、根も葉もない悪評を「新聞屋に知らせてやる」と云われ、入水自殺した例もあったそうです。


この事件に対する新聞側の反論は以下のようなものでした。
“新聞と云うものは、何も人の悪いことを出して恥をかかせてやりたいという趣意ではありません。悪いことを出されたら心を改め、また外の人が出されたのを読んだら、自分の身に引き較べて、なるだけ出されないように心がければ、出されて恥をかくこともなく、安心していられましょう。だから必ず皆さん、良いことをお心がけ下さい”


建前論ではこのように謳っていますが、年を追うに連れ新聞の暴走は酷くなりました。
当初は犯罪行為の糾弾だった記事が、やがて家庭内の騒動にまで飛び火し、読者からの投書という名の“密告”が増えるにつれて、現在で云う“ゴシップ報道”が花盛りとなります。
今日で云う週刊誌やら夕刊紙ネタがこの方面の後継とあたると云えるでしょう。
そして“攻撃対象”は普通の家庭では収まりきらず、当時の特権階級――華族・士族――が主な攻撃対象となっていきます。
支配層のスキャンダルに対して新聞紙上で懲罰を加える。
これは新聞記者のみならず、読者にとっても快感であり、それ故に更に記事は白熱しました。


しかし、明治政府が発布した「讒謗律」が「たとえ事実であっても本人の名誉を毀損する報道は処罰対象となる」と定めていたため、直接名前を挙げての攻撃は出来なくなります。
ですが、それで報道がなくなったと云えばさにあらず。
今度は住所氏名をボカし、ただ「華族様」「士族さん」という風に表現をします。
この結果如何なる事態が生じるのか。
一部の人間のスキャンダルが、その人が所属している階級全体と同一視されて、新聞の読者に認識されたわけです。


さて、何故こんなことを長々と論じてきたかと云いますと、結局新聞(マスコミ)がやっているのは百三十年前も今も同じことであり、それを受け取る読者側もまるで進歩していない、ということを示したかったからです。
マスコミがその媒体で、ある特定のカテゴリーに属する人を批判をし、社会的制裁を加えようとします。
すると現在の多くの受け手は「そのカテゴリーにいる人間全てが悪い」と捉える極めて短絡的な構造が成立してしまっています。
それはそのように誤解させる報道を行うマスコミが悪いのか、マスコミの報道を鵜呑みにする受け手側が悪いのか。
実体としては双方とも問題なのだとは思いますが、これだけインターネットが普及し、その便利さを享受して世代であっても、是々非々の判断が出来ず「某政党は某法案を遠そう・通すまいとしている。某政党は人権抑圧団体だor売国奴だ」とレッテル張りに勤しんでいます。
如何に文明や技術が進んでも、マスコミの一方的な情報の洪水に、思考停止に陥るのではなく、最後まで自分で思考する、という習慣が国民の多数に根付かない限り、マスコミは政治的・社会的意図をにじませた偏向報道をやめはしないでしよう。
果たして、この国でそんな慣習が本当に根付くのか。
……個人的にはかなり絶望的な気分でいるのですけれど。
(続く)